- 聖徳太子(しょうとくたいし)と 慧慈(えじ) ~百済寺創建~
- 飛鳥時代、
高句麗 から渡来した慧慈 は、聖徳太子 (厩戸皇子 )の師となり日本に仏教を広めた第一人者である。“三宝 の棟梁 ”(三宝=仏・法・僧、棟梁=第一人者)とも称されている。
その慧慈とともに近江の地に滞在した聖徳太子は毎夜、不思議な光を見た。
「慧慈よ、あの光は」
翌朝、慧慈は不思議な光を発した山中に太子を案内する。
そこには、枯れた杉の大木があり、幹の上半分は無くなっていた。そして、大木の周りをたくさんの山猿が囲い、果物を供えて礼拝している様であった。
驚いた太子は「これはいかなることであろうか」と問う。
慧慈は、無くなっている上半分の幹は、はるか百済国 の龍雲寺 に運ばれて御本尊、十一面観世音菩薩像 となっていると答えた。
「おお、猿も拝むこの大樹こそ御聖木であろう」
太子は、この大木に根がついたままの状態で十一面観世音菩薩像を彫るべく第一刀を入れ、自らの勅願 により、慧慈とともにこの地に百済寺 を創建したのである。
- 初代住職、道欣(どうきん)の落慶法要
- 百済の高僧、
道欣 は肥後国芦北津 に漂着した。日本滞在を願った道欣は飛鳥寺(元興寺 )に住まうことになる。そして、百済寺御堂の落慶 にあたっては慧慈を呪願師 とし、道欣を導師として三十三日間もの法要が営まれた。道欣は初代住職として百済寺に長く住まうことになる。
- 観勒(かんろく)、百済への望郷
- 日本に
暦本 や天文、地理、陰陽道 などを伝え、日本初の僧正 になった高僧、観勒 は日本史年表にも登場する百済の渡来僧であり、道欣と同じく百済寺に長く暮らした。法要の導師としてのみならず、百済寺の建立に際し、祖国、百済の都であった熊津 (現在の公州 市)と同じ北緯35.1度線上に百済寺を建て、夕日の向こうに百済国を偲んだと言われている。
- “大般若経”(600巻)の書写を完成
- “大般若経”は、大乗仏教の経典を唐の
玄奘三蔵 が天竺 (インドの旧名)から持ち帰り、サンスクリット語から中国語に翻訳、発展させた600巻にも及ぶ経典である。
この膨大な大般若経を百済寺東谷の無量寿院院主、隆昭が書写により完成させるという偉業を成した。百済寺における“谷”とは子院群である谷組織であり、北谷、南谷、東谷、西谷の四つの谷組織が成立しそれぞれに発展してきた。特に東谷は学問に優れていた。
大般若経は約250年間、東谷の経典として用いられた後、1340(暦応3)年に伊賀の池辺寺に移った。さらに1364(貞治3)年に野田六所神社に移り、1503(文亀3)年には安曇川辺の若宮神社(高島市安曇川町北船木)に移って、“北船木の御経”と呼ばれ今も大切に守られている。滋賀県指定有形文化財。
- 天台宗に改宗
- 平安時代、伝教大師(最澄)と弘法大師(空海)によって日本に伝来された密教は、これまでの奈良仏教にかわる新しい仏教として全国各地に広まっていくことになる。天皇や皇族の支援を受けて、最澄は国家安泰を祈願する比叡山延暦寺を建立し天台宗を広めた。比叡山は最澄の死後も発展を続け、数々の名僧を輩出するだけでなく、寺領を拡大していくのである。
湖東地方では大きな勢力を誇った百済寺であったが、延暦寺領や日吉社領として湖東地方にも延暦寺の勢力が拡大するにつれ、百済寺は寺院経営が難しくなり寺領とともに延暦寺の末寺となった。大きな寺院であった百済寺は天台別院と呼ばれ、湖東地方に天台宗を広める一大拠点としての新しい道を選んだのである。
百済寺が天台宗に改宗した当時の第48世天台座主は行玄大僧正 で、のちに青蓮院門跡の初代門主となる人であった。
- 木曽義仲(きそよしなか)と米五百石
- 平家物語で朝日将軍と呼ばれる
源義仲 (木曽義仲)は、平安時代末期の源氏の武将であり、源頼朝 、義経 兄弟とは従兄弟にあたる。
平家に苦渋を飲まされていた各地の源氏は、後白河法王が第三皇子、以仁王 を通して、平清盛 追討令を出したことを機に打倒平家を掲げ挙兵する。義仲も26歳で挙兵し、京に向け進軍した。
破竹の勢いで進撃する義仲であったが、比叡山延暦寺 の僧兵たちが源氏、平家のいずれに味方するかわからず近江の蒲生野 で一ヶ月以上も足止めを食らった。京に上ることままならず兵糧 も残すところわずかである。
「百済寺に使者を送り、兵糧の提供を乞うてくるのだ」
義仲29歳の時である。
当時、この地で大きな経済力を誇っていた百済寺は、義仲の申し出に対し米五百石(1250俵)を贈った。窮地を救われた義仲はいたく感銘を受け、百済寺郷の集落の一つ北坂本の坂本神社の社殿を造営するとともに押立五郷 を百済寺に寄進した。
この後、義仲は延暦寺を味方につけ、やっと都に上ることができ、征東大将軍に任ぜられるも義経に討たれてしまう。享年31歳であった。
- 比叡山延暦寺の塔頭、無動寺の末寺になる
- 無動寺は
北嶺回峰行 (別名:千日回峰行)の拠点であり、その創始者で建立大師と呼ばれる相応 和尚が865(貞観7)年に開いた比叡山延暦寺の塔頭 寺院である。百済寺が無動寺末となったことで、湖東地方における天台僧の修行場として無動寺同様に発展していくことになる。
百済寺も比叡山の形式を取り入れて修行道場的な形を整えており、無動寺が本堂から離れたところに不動明王を祀っていることから、百済寺でも8㎞山奥に離れた大萩(現東近江市百済寺甲)に不動堂を建立して奥の院と呼び、回峰修行が盛んに行われていた。
- 木版“百済寺経”を出版
-
比丘源耀 上人によって、百済寺で印刷された版本妙法蓮華経(8巻)。百済寺で作られ各地に配布されたことから“百済寺経”とも呼ばれた。
甲賀市にある天台宗の名刹、櫟野寺 では、今も大切に所蔵されている。滋賀県指定有形文化財。
- 飛鳥井雅親(あすかいまさちか)宿坊に一泊
- 和歌の達人、
飛鳥井雅親 は参議中納言をへて大納言になった人である。雅親は応仁の乱による争乱の京都を避けて、甲賀にある自分の所領に閑居していた。百済寺が近江の名刹であることを聞いた雅親ははるばる甲賀から参詣した。
本堂をお参りした時に掲げられていた聖徳太子の願文を読み、雅親は宿坊に一泊することになり歌を歌っている。
「生まれあはん 便りをきけば 此の寺の 一夜もかりの 宿りならずよ」
また雅親は、飛鳥井流蹴鞠 の宗家でもある。百済寺西谷の曼荼羅堂 付近にあった蹴鞠場の元木(蹴鞠場の四隅に植えるマツ、ヤナギ、サクラ、カエデ)が枯れていたため、雅親は木を植え、その思いを歌った。
「庭の松 今日植へそえて いつの世の 誰とも知らぬ 跡しのぶなり」
- 織田信長(おだのぶなが)の焼討ち
-
織田信長 の所業と聞けば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名であるが、釈迦山百済寺 も天正元年(1573年)、信長に全域を焼き討ちされている。なぜ信長は百済寺を焼き討ちしたのか、そこには戦国乱世における武将たちとの因縁とも言える物語があった。
近江源氏と呼ばれた名門、佐々木一族の流れを組む六角氏は、百済寺を含む近江国南部の守護職として長く支配していた。百済寺では常々、六角氏を御館様 と呼んで安泰祈願を行っている。百済寺の城塞化には、六角氏から重臣を派遣されるなど、六角氏と百済寺は鎌倉時代以来の親密な関係にあった。
一方、天下統一に向かう信長は、永禄十一年(1568年)に六角氏の居城、観音寺城を攻略するも、城主であった六角義賢 、義治 父子はすんでのところで脱出、逃げ延びることができた。この時、信長は百済寺に禁制を送っている。以下、現代訳。
一、 百済寺は以前からの寺法に従って、以前の通りに寺院の行事を行ってよろしい。臨時に百済寺に対して租税を課してはならない。
一、 百済寺領も以前からの通りである。なお、この地を治める武士は百済寺に人足を申し付けてはならない。
また、武士は山林の竹木を伐ってはならない。
一、 百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない。
信長の“祈願所”にするという一文は、明らかに百済寺を他の寺院とは別格に扱っている表れである。これは信長が全国を制した後、この地方に本拠地をつくり、百済寺を信仰の中心とする思いがあったと考えられ、経済力や文化力など、信長が注目する最も大きな力を持つ寺院が百済寺であったのである。
しかし、百済寺の側になると、今まで六角氏を御館様と呼んでいた事から信長の祈願所にされることには相当の抵抗があった。さらに寺中の長老や高僧には六角氏に属する豪族や地侍の子弟が数多くいる。
逃げ延びた六角氏は信長に反抗する浅井長政 や本願寺一揆とも通じて徹底抗戦していた。信長は六角氏が籠城 する城を佐久間盛信 、蒲生賢秀 、丹羽長秀 、柴田勝家 の四将によって包囲させ、この戦況を見るために自らの祈願寺とした百済寺に軍勢とともに入り、何のためらいもなく宿坊その他に宿泊して戦況を眺めている。しかし数日後、百済寺には六角氏の女子供がかくまわれていることを知った。さらに百済寺が六角氏に食糧を支援していた事実をも発見したのである。
信長の怒りは頂点に達した。
「全山ことごとく焼け山にしてしまえ。石垣は崩して安土に持ち帰るのだ」
そして、信長の軍勢により、中枢部300坊を加え総計1000坊とも言われる百済寺は全山焼土と化し、石垣は安土城の建造のために持ち去られたのであった。同じく麓で寺領鎮護する十禅師社(現日吉神社)も焼失した。
- “地上の天国” 宣教師ルイス・フロイス
- イエズス会の宣教師として来日したルイス・フロイスは、織田信長と二条城の建築現場で出会った。フロイスは信長の許可を得て、近畿各地でキリスト教の布教を行うことになるが、合わせて戦国時代の貴重な歴史を書き残した人物としても有名である。
フロイスは「優れた理解力と明晰な判断力を有し、神仏やその他の偶像を軽視し、全ての異教的占いを信じない。宇宙に創造主はおらず、霊魂の不滅などもなく、死後には何も存在しない、と公言している」と信長の宗教観を見事に書き表している。
フロイスは、信長が祈願所とした百済寺についても「百済寺と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉 と庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び、まさに“地上の天国”」と絶賛し、また信長の焼き討ちによって失われた百済寺を深く惜しむ内容を書き残した。
キリスト教の宣教師フロイスが、栄華を極めた仏教寺院、百済寺に滞在していた貴重な物語である。
- 民話「矢杉とネズミの宮」
- 今から四百年ほど前、織田信長が天下統一をめざし京へ上がるため、湖東に兵を進めたとき、
湖東三山 にも焼き討ちをかけてきました。
三山の一つ、百済寺も、もはやこれまでかと思われたとき、どこからかたくさんのネズミがあらわれ、矢を拾い集めては僧兵に運びました。しかし信長勢はいっそうはげしくせめよせてきます。するとこんどは、境内のスギの大木のこずえから、うなり声をたてて無数の矢が信長勢めがけてとび出してきました。その矢の勢いに、さすがの信長勢も一瞬たじろいだといいます。
百済寺には今も矢杉 とよばれるスギの大木と、その下にネズミの宮が残っています。
(HP民話でたどる滋賀の風景より転載)
- 徳川家康(とくがわいえやす)、寺領を安堵
- 江戸幕府を開く前年の慶長七年(1602年)、
徳川家康 は近江国検知を実施した。百済寺のある愛知郡 で検地を行なっていた奉行、米津親勝 は百済寺の僧坊の一つ千手坊 の仙重 と縁つづきの間柄であった。仙重は岩本坊 の尊海 、南院坊 の亮応 と連名して、親勝を介して荒廃した百済寺の現状を家康に訴え、恩典 を願った。
家康は、寺家屋敷四十六石五斗、不動前五十石、北袋五十石の合計百四十六石五斗の土地を寺領として、課役 や年貢 を免除した。
慶長十七年(1612)、時はすでに二代将軍徳川秀忠 の時代である。仙重は百済寺の代表として、大御所として駿府 にて天下の実権を掌握する家康に謁見することができた。この時いただいたものが寺領百石を免除する朱印状である。
さらに進んで寛永十一年(1634年)、三代将軍徳川家光 の時代である。仙重の後任として、家康からの信頼が最も厚かった天海大僧正 の高弟、亮算 が入寺することになった。
以降、亮算を中心に徳川時代に百済寺は復興を進めていくのであるが、家康から拝領した寺領からの収入は、昔の100分の1程度の微々たるものであり困難な状況はまだまだ続くのであった。
- 明正天皇(めいしょうてんのう)の論旨
- 寛永十四年(1637年)、千手坊の亮算は南院坊の亮応、岩本坊の
圓海 と連名で百済寺の本堂以下を再興する為、朝廷に言上して勅許 を願い出た。勅許とは天皇の許可のことである。朝廷に願い出るということは百済寺が聖徳太子の勅願寺であったことによる。
そして、明正天皇より願い出を許可する論旨 が下された。
ここに至って、本堂、その他を再興するために百済寺の僧侶は江戸幕府への上申願書 や勧進帳 をつくり、多くの人々から寄付を募る準備を進めることができた。合わせて、十禅師社(現日吉神社)も復興を進めた。
- 老中、大奥からの寄進
-
明正天皇の論旨を受けたことで、同じく寛永十四年(1637年)に寺社奉行にも上申願書を出した百済寺であったが、幕府からの援助は得られなかった。
しかし、幕府から直接の援助は叶わなかったものの、幕政に携わる名だたる人物から百済寺復興のための寄金を受けることが叶った。
のちに初の大老となる土井利勝 もその一人。家康の従弟にあたり、家康、秀忠、家光と三代にわたり徳川将軍に仕えた実力者である。当時、三代将軍家光の時代は、約260年間続く江戸幕府の基礎固めに取り組んだ時期であり、利勝は老中であり寺社奉行であった。結果、上申願書を出した百済寺に対し幕府としての援助は見送られたのであるが、利勝は個人として寄進に加わった。
同じく当時、老中で寺社奉行の酒井忠勝 も百済寺に寄進を行なった。忠勝も利勝とともに初の大老となる実力者である。将軍家光の信任が特に厚かったと言われる忠勝は、家光から所領の加増を打診されるも辞退する謙虚な人柄であったと言われている。
お勝は家康の側室である。関ヶ原の戦いや大坂冬の陣、夏の陣に男装してお供する稀有 な人物である。水戸徳川家の祖となる家康の十一男、頼房 の養母でもある。家康の死後は英勝院 と名を改め、鎌倉の尼寺、英勝寺 を建立した。英勝院も大奥の重鎮として百済寺復興に寄進した一人である。
春日局 は明智光秀 の重臣の娘として丹波国に生まれる。本能寺の変により追われる身となって厳しい幼少期を経るも、のちに家光(幼名:竹千代 )の乳母となって、優れた手腕で家光を三代将軍に押し上げた女性官僚であり、徳川政権の安泰へと繋がる大奥を江戸城内に築き上げ統率した。春日局も百済寺に寄進している。
- 天海大僧正(てんかいだいそうじょう)の喜捨
-
天海 は天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の焼き討ちにより武田信玄 や蘆名盛氏 のところに身を寄せ、川越大師として知られる喜多院の住職を経て、徳川家康の参謀となった。家康の信頼が厚い天海は、幕府の本拠地は江戸が最適と助言し、いまでいう都市計画を大胆に行って、関東の片田舎に過ぎなかった江戸を大都市に変貌させた張本人である。江戸時代の平均寿命が30〜40歳といわれる時代に100歳以上もの長寿を全うし、家康、秀忠、家光の三代にわたって徳川将軍家に仕えた。
天海は、信長の焼き討ち以降、衰退していた比叡山延暦寺の南光坊 に移り住み、比叡山の再興にも尽力する。これが南光坊天海とも言われる所以 である。江戸に戻ったのちは江戸城の鬼門にあたる上野に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願する東叡山寛永寺 を創建、初代山主となった。
比叡山と同じく信長に焼き討ちされた百済寺に対しても自身の高弟、亮算を入山させるとともに、寛永寺の多くの僧信徒とともに百済寺に喜捨 し、百済寺の再興に寄与している。諡号 は慈眼大師 。
- 藩主、井伊直孝(いいなおたか)の援助
-
井伊直孝 の父直政 は、井伊氏発祥の遠州伊井谷 に生まれ、女当主の直虎 に育てられ、やがて徳川家康に見出され家臣となり徳川四天王と称えられ、佐和山城に入城、十八万石を得る。
直孝は、徳川秀忠に仕え、大阪冬の陣、夏の陣では井伊家の大将として出陣、軍功をあげた。父直政の死後は大御所家康の裁定により兄直勝に三万石、直孝は十五万石を継承し彦根藩主となる。直孝は幕府内での功績も重ね、三代将軍家光の後見役や彦根藩に三十万石を与えられるなど譜代大名の筆頭となり、幕末まで大老職を輩出する名門井伊家を築いた。
再興を願う百済寺に対して直孝は、領内各地の村々より計2281人もの人員を寺に入れて労力の面を全部受け持った。また、復興に必要な木材など物資の寄進を行い、寺社奉行や大奥への寄金要請にも力を入れている。
境内には二代、三代将軍に寵愛され、百済寺に出家した直孝の息子、直滋 の峻徳院墓所 が佇んでいる。
- 大棟梁、甲良宗弘(こうらむねひろ)の伍百両
-
甲良宗弘 は、百済寺からほど近い甲良荘 で建仁寺 流の大工を伝える一族に生まれた。江戸幕府開府の翌年に江戸に下り、幕府の作事方大棟梁 として徳川家の菩提寺 である増上寺 や江戸城天守閣を改築、寛永寺五重塔や日光東照宮 の造営を手がける名工として活躍し、甲良家は幕末まで大棟梁を勤め、幕府建築に携わった。
大工である宗弘が当時のお金としては破格の五百両という大金を喜捨したのは、甲良家の祖先にあたる渡来系氏族の依知秦氏 が百済寺の創建、発展に関わっていたことや、宗弘の甥が百済寺の長老、南院坊の亮応であったことによる。
労働力は井伊直孝が、金銭面では宗弘の五百両をはじめ老中、大奥の方が出費して、本堂、仁王門、総門(赤門)を再建することがやっと叶い、平成のいまも静かに佇んでいる。
- 仁王さまと大わらじ
- 昔から百済寺郷の人は、仁王門に草鞋や草履とともに牛の藁沓を供えて祈る風習がある。山里の人々は山道を歩いて材木や薪炭を背にして細い山道を登り下りしなければならなかった。そのためには丈夫な足腰を必要として、仁王様のような丈夫な体にして頂きたいと祈願したのが始まりで、個人個人が供え物をもって祈願したものである。
現在では百済寺本町の人々が協力して大草鞋を奉納している。